青春2010

注目のヒップ・ホップアーティスト

英語 北京ペキン語 広東カントン語 日本語
多言語で国境越えた「調和」を表現

師匠という〝心の灯台とうだい〟があればこそ
絶望からの使命の舞台ぶたいをつかんだ!

【東京都大田区】「大丈夫」「No.1」など、英語・北京ペキン語・広東カントン語・日本語を駆使くししたヒップ・ホップ音楽を世に問うてきた日華にっか(nycca)さん(29)=日本名・秋山広宣ひろのぶ、黄金支部、男子部副部長、芸術部員。悲嘆や感傷と無縁な力強ちからづよいメッセージが、く人を鼓舞こぶしてやまない。その歌声には、絶望から立ち上がり、人生の舞台ぶたいきずき上げてきた彼の確信がほとばしっている。

失意

アフリカ系アメリカ人の文化から生まれたヒップホップ音楽。いん(同じか似た音韻を決まった位置で繰り返すこと)をむ独特なリズム、直接的な表現、社会を風刺ふうしした歌詞が特徴だ。

日華さんみずからがつくる楽曲には、さらに特徴が。例えば、プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスの岩隈久志投手の登場曲にもなっている「No.1」の歌詞。

「Believe you're the one and be the NO.1……一番 いくぜこの手でつかむ 一生に一度二度とないチャンス……冠軍 唔可以浄係靠運」

多言語がラップで一体化するさまは、彼の信念を象徴しょうちょうしているかのようだ。「芸術や文化は、人々の心の交流を生み、調和と信頼をもたらします」

香港・九龍クーロン生まれ。香港出身の父・陳中行チャンチョンハンさん(故人)と、日本人の母・眞智子まちこさん(59)=支部副婦人部長=との間に生まれたことから、「日華」と名付けられた。

母は、香港SGI(創価学会インタナショナル)で広布一筋。「池田先生はね、何があってもあなたの成長を信じてくださっているのよ」と語る母の姿すがたは、いつもかがやいていた。

鮮烈せんれつな出会いがある。小学4年生の時、会館に向かうと、池田名誉会長の乗る車が、目の前に。「先生!」

車窓しゃそうから名誉会長は、白い帽子を取って深々とあいさつ。

〝こんなおさない自分に対しても、丁寧に接してくれた……〟。五体に衝撃しょうげきが走った。母の言葉は真実だと、あらためて実感した。

このころから、人気をはくしていたマイケル・ジャクソンに傾倒けいとう。それをきっかけに、ヒップ・ホップ音楽の世界にのめり込む。

父の仕事の関係で、10歳で日本へ。中学を福島県で過ごした後、創価高校に進学(29期)。創立者との出会いをかさねた。

卒業後の99年(平成11年)8月、彼は単身米・ニューヨークへ向かう。語学留学で大学に通うかたわら、本気でヒップ・ホップをきわめようとしていた。

しかし、本場・アメリカでは、自分の実力じつりょくなど、埋没まいぼつしていくような気がした。

くやしさ。あせり……。次第に信仰からも遠ざかる。

心身ともに衰弱すいじゃくしきっていた。気がつくと、道路の交差点に飛び込んでいた。ダンプカーにひかれそうになったところを、間一髪かんいっぱつで助けられた。日本から母がけ付けた。

渡米とべいからわずか、4カ月。12月24日、失意のうちに帰国する。

道中、出発を見送ってくれた同窓生を思う。りしきる雪はつめたかった……。

自覚

東京・府中の実家へ。一日中、部屋でうなだれる彼は、何もかも拒絶きょぜつした。

そうした中、思い浮かんだのは、母が人生の師をもとめる姿、そして、自分自身が直接、目にしてきた師のいだった。

一条いちじょうの光を求めるように、体は不思議と御本尊に向かっていた。

〝おれの人生、このまま終わるはずがない……〟

唱題する手はふるえていたが、心にわき上がる思いがあった。

アルバイトをしながら、徐々じょじょに音楽活動を再開する。

2001年6月、縁あって大田区蒲田へ。創価班大学校での薫陶くんとうが、彼をさらに飛躍ひやくさせる。小説『人間革命』を研さん。創価の師弟の峻厳しゅんげんさに圧倒あっとうされる。〝信心で、ここまで人間は強くなれるんだ!〟

その確信のままに、折伏に挑戦。「お前がそこまで言い切れるものなら」と、友人が次々に入会。1年間で12世帯の弘教をみのらせた。生命が躍動やくどうするのを実感した。

03年2月、男子地区リーダーの代表として青年部幹部会に出席する。師と再会した彼は、あらためて誓った。

〝あんな、どん底からでも、い上がれたという事実……。どこまでも、人間が持つ生命の可能性を信じたい。音楽で、そのちからを伝えたい……!〟

それが、世話になった大勢の人々への恩返しであると信じて。

香港ホンコンのラジオチャート1位
会社を設立し文化の交流も
飛翔ひしょう

そのたましいがこもった曲は、着実に共感を呼ぶ。数百人規模のライブを開催かいさいするまでに。自主制作のCD約2000枚を販売。

05年8月、若手の登竜門とうりゅうもんとして有名な「DIESEL:U:MUSIC」のアーバン部門で優勝。その後、インディーズで「来恩ライオン」を(06年)、メジャーで「大丈夫」も(07年)リリース。人生の舞台が、一つ一つひらけていくのが実感できた。

その中で、大きな転機となったのが、06年7月の学会訪中団への参加だった。

当時、政治レベルの日中関係はえ込んでいた。しかし、名誉会長が命懸いのちがけで築いてきた〝信頼のきずな〟は、現在も強固きょうこなことをたりにする。

「不信を調和へ。日中友好から、世界平和の道をひらいていこうと、はらが決まりました」

その最初の舞台を香港にさだめる。昨年、香港の週間ラジオのインターナショナルチャートで1位を獲得かくとくしたことで、大きな手応てごたえをつかんだ。

本年6月には、自身の会社「CHAN'S(チャンス)」を設立。日本と香港のアーティストの交流など、活躍のはばを着実に広げている。

「使命の舞台は、自分自身の手で必ずつかめる。でも、僕のように、時には途中とちゅうまよってしまう事があるかもしれない」

「だから」と彼は語気を強める。「〝心の灯台とうだい〟である、人生の師匠という存在が必要なんです」

どんな時も、池田門下生の感謝とほこりをわすれない青年である。